龍のチャームがついた甲辰(きのえたつ)歳限定お守り
お守りコレクションblog
第208回目は宮城県塩竈市にある
鹽竈神社のうまくいく御守です。
初穂料1000円(授与時)。
何事もうまくいくことを祈願した
心願成就のお守りです。
底がない円のようなものが描かれており、
これは馬の蹄を表現しています。
「うまく」と「馬」をかけたというわけですね。
朱、紺、金の3種類の蹄。
朱の明るさ、紺の引き締め、金の高尚感のミックスが
お守りに豊かさを与えていると思います。
これならきっと「うまくいく」。
そんな気分にさせてくれますね。
よく見ると
蹄の細部までちゃんと再現されています。
ただ、
金色のためベースのクリーム色と同化してしまい、
見づらいです。
暗めに撮影するとそれが解消されて
ディテールが分かりやすいかと思います。
こんな感じです。↓
社紋や文字もしっかり見えていますね!
社紋が2つ入っています。
左が鹽竈神社の鹽竈桜。
右が志波彦神社の丸に左三つ巴。
※シンプルな左三つ巴にも見えますが、志波彦神社の社紋は丸に左三つ巴です。
ちなみに
鹽竈神社の境内には31本の鹽竈桜の木があり、
国の天然記念物に指定されています。
なぜ2つの社紋が入っているのかは
次の章で説明したいと思います。
こちらのお守りは甲辰(きのえたつ)歳限定のお守り。
龍のチャームがその証拠です。↓
ということは
翌年は巳に変わるのでしょうかね。
甲(きのえ)は十干(じっかん)の最初で、物事の始まりの意味。
十二支の辰(たつ)は昇り龍と呼ぶように、
勢いよく活気にあふれた様子を意味します。
十干と十二支の組み合わせである甲辰は
新しいことに挑戦して成功する
これまで準備してきたことが形になる
など、大変縁起の良い年になると一般的にいわれているそうです。
果たしてみなさんはどうでしょうか?
十干(じっかん)とは、
甲(こう:きのえ)、乙(おつ:きのと)、丙(へい:ひのえ)、丁(てい:ひのと)、
戊(ぼ:つちのえ)、己(き:つちのと)、庚(こう:かのえ)、辛(しん:かのと)、
壬(じん:みずのえ)、癸(き:みずのと)の総称で、
もとは1から10までものを数えるための言葉です。
2024年の干支は辰ですが、
本来の干支は十干と十二支を組み合わせた60通りあり、
2024年の正式な干支は十干の「甲」と十二支の「辰」が組み合わさった
「甲辰(きのえたつ)」です。
甲辰は、十干十二支の41番目の年にあたります。
60通りある十干十二支は古くから暦のように使われてきました。
その代表が還暦で、60年で干支が一巡し、誕生年の干支に還ることが還暦の由来です。
鹽竈神社の正式名称は「志波彦神社・鹽竈神社」のダブルネーム
裏面です。
左に鹽竈神社、右の志波彦神社の神社名。
なぜダブルネームになっているのでしょう?
一般には鹽竈神社として通っていますが、
正式名称は「志波彦神社(しわひこじんじゃ)・鹽竈神社」。
これは、同じ境内に2つの同格の神社が鎮座していることを意味します。
なぜそうなったのでしょうか?
もともとここには鹽竈神社のみが鎮座していました。
古来より東北鎮護の神(災いなどを鎮めて東北の治安を守る神)として、
また陸奥国一之宮(陸奥国で最も格式の高い神社)として、
朝廷から民衆に至るまで広く信仰されてきました。
一方、
志波彦神社は宮城郡岩切村(現仙台市宮城野区岩切)の
冠川のほとり(現八坂神社境内)にありました。
『延喜式』の神名帳に記載されている
2861社の中でもわずか225社しかない名神大社という
称号を受けていた神社です。
しかし
中世以降に衰退の一途を辿ってしまいます。
そこで明治に入り(明治7年12月24日に)この地を離れて
鹽竈神社別宮に遷座されました。
志波彦神社のお引っ越しにあたり、
なぜ鹽竈神社が選ばれたのでしょうか?
鹽竈神社のご祭神は三柱あり、
主祭神が塩土老翁神、左宮に武甕槌神、右宮に経津主神です。
左右の神は鹿島神宮、香取神宮のご祭神で
東北地方平定にあたり、
志波彦神社のご祭神である志波彦大神の案内によって
鎮定することができたという繋がりがあります。
その御神縁によって鹽竈神社が選ばれたといわれています。
志波彦神社が鹽竈神社の境内社ではなく、
同格に位置付けられたのは
朝廷から格別の崇敬を受けていた
名神大社だったからなのだろうと想像しています。
鹽竈神社のお守り紹介はこちら
鹽竈神社とは以下のようなところです。
202段の石段が鹽竈神社の名物の一つ
JR仙石線「本塩釜駅」から徒歩約15分。
鹽竈海道沿いに鹽竈神社はあります。
駅から向かいますと
ひと際大きな鳥居を目にします。
「着いた!」
と一瞬思うのですが、
ここは東参道の鳥居。↓
行きたいのは表参道です。
東参道を通り過ぎて、
さらに歩きますと
一の鳥居に到着します。
ここが表参道です。↓
高さ6m、柱間約5mの花こう岩製の明神鳥居。
遠目から見ても重厚感が伝わってきます。
まるで腰の座った力士のよう。
参道の両脇には灯籠があり、
これを見ただけで鹽竈神社の規模感が分かります。
扁額には陸奥国一宮の文字。↓
扁額は銅製。
柔らかく遊び心のある文字は
姫路藩2代藩主、酒井忠以(ただざね)によるもの。
手書きでこのクオリティは相当な才能の持ち主。
今だったらアーティストとして活躍できたかもしれませんね。
一の鳥居から神域へと入りますと
急階段が待ち構えています。↓
両脇の緑を切り裂くように作られた直線的な階段は
モーセの海割りのようです。
参拝に訪れた日、
上りながら石段を数えているグループがいて、
A「202段だった」
B「?? 212段あったよ」
A「202段だよ」
B「いくらなんでも10も数え間違えるなんて、あり得ないだろう」
正解は202段でした!↓
上り切った先に建物が見えます。
またしても石段がありますね。こちらは26段。
202段+26段を上った先にあるのが
随神門です。↓
高さ約12.5m
幅8.49m
奥行4.88m
1704年に仙台藩四代藩主の伊達綱村が造営しました。
現在の門は2011年(平成23年)に修復されたもの。
鹽竈神社では20年ごとの式年遷宮に合わせてメンテナンスされるそうです。
随神門を入ると唐門があります。↓
門の前には年季の入った狛犬。↓
1747年(延享4年)に奉納されたものです。
丸みがあってかわいいですね!
花こう岩製の明神鳥居に掲げられた扁額もそうですが、
2体の狛犬が作られたのは同じく1700年代。
この時代はかわいいものがトレンドだったのでしょうかね?
唐門の扁額には一宮鹽竈三社大明神と書かれています。↓
三社大明神とは
塩土老翁神(しおつちおじのかみ)
武甕槌神(たけみかづちのかみ)
経津主神(ふつぬしのかみ)
を指していると思われます。
主祭神が祀られている別宮は海を背負うように建てられている
唐門の中へと入ると
正面に左宮右宮の拝殿があります。↓
左宮には武甕槌神、右宮には経津主神
が祀られています。
なぜ、正面の位置なのに左宮と右宮があるのか、
不思議ですよね。
こちらの二神は仙台藩主伊達家の守り神であるため
仙台城からお祈りできる向きに建てられたといわれています。
では
主祭神である塩土老翁神はといいますと。
正面右手にあります。
別宮という名前です。↓
別宮の別とは「別の」といった補足的なものではなく
「特別」というスペシャルな意味で用いられています。
「特別な宮」には当然ながら
主祭神の塩土老翁神が祀られています。
塩土老翁神は海の守り神。
海難を背負っていただくよう
海に背を向けて鎮座しているといわれています。
鹽土老翁神は『古事記』『日本書紀』の海幸彦・山幸彦の説話に、
釣り針を失くして困っていた山幸彦に目無籠(隙間のない籠)の船を与え、
ワダツミの宮へ案内したことで有名です。
その一方で、博識の神としても登場しています。
また、塩釜の地にて
人々に製塩法を教えたとされ、
塩釜の地名の由来ともなっています。
鹽竈神社の創建年代は不明。
ですが、平安時代初期(820年)に編纂された
『弘仁式』主税帳逸文には
「鹽竈神を祭る料壱萬束」とあり、
これが文献に現れた初見とされています。
このことから
創建は奈良時代以前ではないかといわれています。
鹽竈神社は歴史の宝庫
別宮、左宮、右宮がある唐門内には
見応えのあるものが揃っています。
まずは
銅鐵合成燈籠。↓
1809年(文化6年)
仙台藩九代藩主の伊達周宗(ちかむね)が
蝦夷地警護からの凱旋後に寄進したもの。
塩竈市指定文化財になっています。
柵ギリギリまで近づいて見ると
装飾の繊細さがよく分かります。↓
龍や鳳凰が実にリアル。
架空の生物とされていますが、
実在しているかのようです。
仙台の有能な鋳物師である早井義幹、大出治具、田中清道が
制作に関わったといわれています。
文治の燈籠です。↓
この古い鉄製の灯籠は
1187年(文治3年)に
奥州藤原氏3代当主、藤原秀衡(ひでひら)の三男である
藤原忠衡が寄進したもの。
忠衡は秀衡の遺言である源義経の保護を強く主張し、
兄の第4代泰衡と対立。
そのような折に
平泉の平和を祈願して奉納したと考えられています。
その2年後の1189年に
忠衡は誅殺され、
奥州藤原氏は源氏によって滅ぼされてしまいました。
日時計(複製)。↓
鹽竈神社の神官であった藤塚知明が
1792年に奉納した日時計の複製です。
「寛政の三奇士」の一人、林子平が
長崎で学んだ知識をもとに作ったと考えられています。
実物は鹽竈神社博物館に展示されています。
杉のご神木です。↓
高さ31m
樹齢約800年
塩竃市の天然記念物に指定されています。
唐門の外になりますが、
開運や商売繁昌のご利益があるとされる
撫で牛があります。↓
かわいい顔をしています!
牛を撫でるとよくよだれを出すところから
「商売は牛のよだれ(商売が牛のよだれのように細く長く続くように)」
ともいわれ、
撫で牛が祈願奉納されました。
志波(しわ)とは端(はし)の意。朝廷勢力圏の端を表しているとも
ダブルネームのバディ、志波彦神社へも上がってみましょう!
鹽竈神社は階段を上がっていき、頂上まで行くとありましたが、
志波彦神社は東側のやや下がったところに鎮座しています。
社号標には延喜式内名神大社と書かれています。↓
志波彦神社は
927年にまとめられた全国の神社一覧表
『延喜式神名帳』内において
2861社の中に225社しかない
名神大社の一つとして記載されています。
正門があり、↓
中へ入ると正面に拝殿があります。↓
もともとは宮城郡岩切村(現仙台市宮城野区岩切)の
冠川のほとり(現八坂神社境内)にありました。
今の場所に遷座したのは明治7年12月24日。
現在の社殿は昭和13年に建てられたものです。
志波彦神社のご祭神である志波彦大神は
左宮の武甕槌神、右宮の経津主神の
東北地方平定にあたり、
案内をしたという神。
ご神名の志波とは「物のシワ」、
端(はし)を指す言葉で、
仙台市内に志波町、
栗原市志波姫には志波姫神社(式内社)、
岩手県紫波郡に志波城跡、志和稲荷神社、志和古稲荷神社
とシワの名を持つところが点在しています。
これは、
大和朝廷の統治範囲が北進するにつれ、
シワの地(朝廷勢力圏の端)が
移っていったことを意味しているといわれています。
そして現在、志波彦大神は
この地方で信仰されていた国津神(土着神)として
農耕守護・殖産・国土開発の神として尊崇されています。
境外社の御釜神社で四口の神釜に参拝を!
塩釜神社、志波彦神社へ上がってOK……
ではありません。
ここにもぜひ行ってほしい。
鹽竈神社の境外社、御釜神社です。
鹽竈海道を渡って
本町通りへ入ればすぐ目の前。↓
現在の御釜神社境内地周辺は、
かつて「甫出(ほで)の浜」と呼ばれた浜辺で、
塩土老翁神により伝えられた製塩が
行われた場所といわれています。
小さいお社には塩土老翁神が祀られています。↓
御釜神社には
四口の神釜(よんくのしんかま)と呼ばれる
4つの鉄製の釜があります。↓
これが御釜神社へ行ってほしい理由です。
四口の神釜は扉の向こうにあり、
拝観するには初穂料100円がかかります。
撮影NG。
約3メートル四方の空間に
直径1メートルほどの鉄製の釜が
オセロゲームのスタート時のように4つ並んでいます。
釜の中の水は海水で、溢れることも枯れることもないとされ、
江戸時代には、
変事あるときにその前触れとして御釜の水が変わる
といわれました。
神社の方いわく
この日の水量は「少ないです」。
厳しい残暑が続いている影響だろうということです。
それでも「枯れること」はないとおっしゃいます。
不思議ですね。
四口の神釜は
兵庫県生石神社の「石の宝殿」
宮崎県霧島東神社の「天の逆鉾」
と並び、
日本三奇の一つに数えられています。
ぜひこの目で見てください。
塩竃市というのんびりとした街に鎮座する名社、鹽竈神社。
なのにここだけ人口密度が高く、賑わっているという不思議。
それだけご利益があると信じられているからなのでしょう。
目の前は港。
海の幸もおいしいですよ!
住所:宮城県塩竈市一森山1-1
アクセス:JR仙石線「本塩釜」駅より表参道(表坂)の石鳥居まで徒歩約15分
東参道(裏坂)の石鳥居までは徒歩7分
http://www.shiogamajinja.jp/index.html
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