描かれた鹿と直刀は鹿島神宮にとっての虎の子
第32回目は茨城県鹿嶋市にある
鹿島神宮の「幸運守」です。
初穂料1000円(授与時)。
えんじ色の地に
鹿の角と剣が描かれています。
えんじのカラーというと、
地元のプロサッカーチーム、鹿島アントラーズが思い浮かびます。
鹿島アントラーズはJリーグ30年の歴史において、
まだ一度も2部に降格したことのない2チームのうちの一つ。
(もう1チームは横浜Fマリノスです)
鹿島神宮のご祭神であり武神・軍神ともいわれる
武甕槌大神(たけみかづちのおおがみ)のご利益なのかもしれません。
ちなみに「幸運守」は
やはりというか当然ながらというか、
アントラーズサポーターから人気なようです。
お守りに描かれている鹿の角には、
どのような意味があるのでしょうか?
国譲りの神話において、
鹿の神である天迦久神(あめのかくのかみ)が、
天照大御神の命を武甕槌大神に伝えるという
重要な役割を担いました。
また、奈良に春日大社を創建する際に、
鹿島の神様の御分霊を鹿の背中に乗せて遷(うつ)した
という伝説も残っています。
このことから、
鹿島神宮では鹿が神使として崇められており、
お守りに描かれるのは、
取り立てておかしなことではないようです。
ただ他のお守りを見ていますと、
鹿が使われる場合は
鹿自体が描かれるのに対し、
角だけというのは、「幸運守」のみであります。
(このブログを書いている時点において)
このシンプルさが
実はカッコ良さを引き出している
秘訣なのだと思います。
では剣は?
この剣は韴霊剣(ふつのみたまのつるぎ)です。
神話の時代、神日本磐余彦尊(かんやまといわれびこのみこと)が
大和(今の奈良県)を平定する際、
その土地の豪族による激しい抵抗にあい、
さらに疫病にも見舞われて、
壊滅寸前に陥りました。
そのとき、
天照大御神と高木神が、出雲の国譲り神話において活躍した
武甕槌大神を遣わそうとしたところ、
自分が行かずとも、
国を平定した特別な剣があるので
それを天より降せばよい
といいました。
そして、
武甕槌大神は熊野の高倉下(たかくらじ)の夢に立ち
高天の原の命によりこの剣を倉に置いておくから、
朝目覚めたら天津神の皇子(神日本磐余彦尊)に献上しなさい
と伝えます。
翌朝、高倉下が目覚めて倉を調べたところ、
本当に倉の中に剣が置いてあったため、
それを皇子に献上しました。
この剣の見事なまでの神威により、
兵士たちは疫病から回復し、
豪族たちの抵抗を平定することができました。
これが韴霊剣であり、
お守りに描かれた剣であります。
その後、皇子は大和の橿原宮で初代の天皇、
神武天皇として即位しました。
神武天皇即位後、韴霊剣(ふつのみたまのつるぎ)は
物部氏の遠祖である宇摩志麻治命(うましまじのみこと)により代々宮中に祀られていました。
しかし、第10代崇神天皇の勅命によって、物部氏の祖である伊香色雄命(いかがしこおのみこと)
が大和の石上(いそのかみ)に遷し、神体山に埋納して祀ることとなります。
この場所が、現在の奈良県天理市にある石上神宮だと伝わっています。
現在でも、韴霊剣は石上神宮の神体山に埋め納められているといいます。
一方、鹿島神宮には全長2.7メートルを超える長大な「直刀」があります。
製作年代は約1300年前と推定され、
伝世品としては日本最古最大の剣として、昭和30年に国宝に指定されています。
神話の上では、韴霊剣が武甕槌大神の手に戻ることなく、
神武天皇の手を経て石上神宮に祀られたことから、
現在では「二代目の韴霊剣」と解釈され、
「神の剣」として鹿島神宮に保存されています。
武甕槌命(たけみかづちのおおかみ)は、
伊弉諾尊が火神である迦具土(かぐつち)を切り殺したときに剣に付着した血から生まれた神。
古事記や日本書紀によれば、出雲の国譲り神話の中において、
高天原から天鳥船(あめのとりふね)神または経津主神とともに派遣され、
出雲の大国主命に国譲りを交渉。その話し合いの際、韴霊剣(ふつのみたまのつるぎ)を
波に逆さに突き立て、その剣の先にあぐらをかいて大国主神に国譲りを迫り、成功させました。
古事記では、建御雷神、建布都神(たけふつのかみ)、豊布都神(とよふつのかみ)とも記載。
「三つ巴」の社紋は武神をお祀りする証か?
裏面です。
鹿島神宮の社名と社紋が入っています。
社紋は「尾長左三つ巴」。
「三つ巴」の一種です。
「三つ巴」を使用する神社は八幡神社系が多く、
応神天皇という武神が祀られているのが特徴です。
鹿島神宮のご祭神である武甕槌大神(たけみかづちのおおがみ)も
国土平定に活躍したという説話から、
武神・軍神の性格を持つといわれており、
武家政権において崇敬されました。
武神繋がりで
「三つ巴」を採用したのではないかと推測しています。
ちなみに、
応神天皇は生まれたときに、
腕に鞆(とも/弓を射るときに左手首の内側につける防具)のような
筋肉が備わっていたといわれており、
これが武神と崇められる所以の一つともなっています。
鞆(とも)を図案化したものが「鞆絵(ともえ)」と呼ばれ、
その後「巴」という漢字が当てられました(一つの説ではありますが)。
「巴」には「鞆絵」説以外にも、
勾玉を模したという説や、稲妻、雲、水などの自然の形を描いたという説もあります。
この説の背景には、巴紋が魔除けや火災除けの役割を果たす意味が
あるからだといわれています。
お守りの下の部分には、
白と紺のリボンのような絵柄が入っています。
御幣(ごへい/神社でよく見かける紙垂れ)のようにも見えます。
御幣は雷光を模した形ともいわれているので、
この絵柄が御幣である可能性はありそうです。
お祓いやお清めに使われることを考えても
あり得る話ではないでしょうか。
鹿島神宮のお守り紹介はこちら
鹿島神宮とは以下のようなところです。
鹿島神宮は日本三大神宮の一つ
常陸国一之宮で、全国に約600社ある鹿島神社の総本社です。
創建は神武天皇元年(西暦だと紀元前660年とされています)。
神武天皇は東征(大和平定)の半ばにおいて窮地に陥ったとき、
武甕槌大神の韴霊剣によって救われました。
この神恩に感謝し、即位の年(皇紀元年)に
大神を鹿島の地に勅祭されたと伝えられています。
常陸国風土記では、「香島の天の大神」が高天原より
香島の宮に降臨したと書かれており、
これが鹿島神宮の始まりともいわれています。
「香島」とは「鹿島」のことです。
飛鳥時代において、
鹿島神宮は朝廷との関係を深めたといいます。
鹿島神宮のある常陸の鹿島(現・鹿嶋市)は、
中臣鎌足の出生地との説もあり、
「神官の子として生まれ、名を鎌子といい、
極めて利発な子でしたので、奈良の都へ行かせ、
中臣本家の養子となった」
との言い伝えが残っています。
中臣鎌足は645年の大化の改新で、
中大兄皇子とともに蘇我氏を倒し、様々な改革を進めた人物。
大化の改新後、中臣氏は政治的に躍進し、
やがて中大兄皇子が即位(=天智天皇)すると、
最高位の位を授かり、藤原の姓をたまわりました。
日本史における藤原家の繁栄はここから始まったわけです。
これにより、鹿島神宮も朝廷との関係を強固にしていきました。
奈良時代には
鹿島神宮は藤原氏から氏神として崇敬されました。
平安時代の927年(延長5年)に成立した「延喜式」神名帳では
「神宮」の称号で記されたのは、伊勢神宮、香取神宮、鹿島神宮の三社のみです。
現在、「神宮」のつく神社は全国に25社。
・伊勢神宮
・北海道神宮
・鹿島神宮
・香取神宮
・明治神宮
・熱田神宮
・國懸神宮
・日前神宮
・石上神宮
・吉野神宮
・橿原神宮
・近江神宮
・白峯神宮
・平安神宮
・新日吉神宮
・水無瀬神宮
・気比神宮
・伊弉諾神宮
・赤間神宮
・英彦山神宮
・宇佐神宮
・宮崎神宮
・鵜戸神宮
・霧島神宮
・鹿児島神宮
※「神宮」を公式な社号とする神社は特別の由緒を持つところに限られています。
鎌倉時代以降、武家政権となると、
御祭神が武神ということもあり、武士たちから大変崇敬されます。
源頼朝からは多くの社領が寄せられました。
1605年(慶長10年)には徳川家康により
当時の本殿(現・摂社奥宮の社殿)が造営されました。
現在の社殿(本殿・石の間・幣殿・拝殿の4棟)は
徳川二代将軍の秀忠によって造営され、
楼門は水戸初代藩主の徳川頼房によって建てられたものです。
江戸時代に
利根川から江戸を結ぶ水運が開かれると、
「伊勢参りのみそぎの東国三社参り(鹿島・香取・息栖)」が流行して、
庶民にも鹿島信仰が広がりました。
そして、現在に至るまで東国最大最古の神社として
皇室や一般の人たちから崇敬を集めています。
東日本大震災によって倒壊した大鳥居は2014年6月1日に再建
鹿島神宮の参拝は最寄りの鹿島神宮駅から始まっています。↓
ホームに繋がる階段に楼門がデザインされています。
鹿島神宮へと続く参道には飾り付けがされています。↓
この日は雨が雪に変わり、風もビュービュー吹くような悪天候。
気温も低く、武甕槌大神に試練を与えられているような、そんな気分でした。
武神とは、なんと厳しい神様か。
向こうには大鳥居が見えます。
参道には神使である鹿の像がありました。↓
親子でしょうか。3頭います。
鹿島神宮の大鳥居です。↓
見事なまでの大鳥居。感動すら覚えます。
こちらの大鳥居は、2014年(平成26年)6月1日に再建されたもの。
以前の大鳥居は、
国産の花崗岩によって造られ、
このタイプの鳥居としては日本一を誇るものでした。
しかし、
東日本大震災によって倒壊してしまいました。
再建するにあたり、
境内から4本の杉の木を伐り、
大鳥居は木製として生まれ変わりました。
個人としては、木の鳥居のほうが崇高な雰囲気がして好きです。
国の重要文化財である楼門は日本三大楼門に数えられる
楼門です。↓
高さ約13m。
国の重要文化財に指定されています。
徳川頼房が三代将軍・徳川家光の病気平癒を大宮司に依頼し、
家光が快方に向かったために奉納されたといいます。
昭和15年の大修理の際に丹塗りとし、
昭和40年代に檜皮葺の屋根を銅板葺に改修しました。
鹿島神宮の楼門は
日本三大楼門の一つです。
日本三大楼門とは、
鹿島神宮(茨城県鹿嶋市)、筥崎宮(福岡県福岡市)、阿蘇神社(熊本県阿蘇市)の楼門です。
楼門の扁額に書かれた「鹿島神宮」の文字は
東郷平八郎が担当しました。↓
上手いのか、そうでないのか、分かりませんが、
個性的な文字であることは事実です。
海軍の将だった東郷平八郎は、
今では東郷神社の神となっていますが、
まだ人間だったときに
武神が祀られている神社に対して貢献されていたんですね。
おもしろいです。
17回Z旗でスポーツや受験の勝利を祈願。東郷神社の「勝守」
神社の常識に反して鹿島神宮は北向きに建っている
拝殿です。↓
拝殿の奥に幣殿があり、さらに奥に石の間があり、
一番奥に本殿があります。
一般的に神社は、東または南向きに建てられていますが、
鹿島神宮は北向き。
常識に反するように佇んでいます。
これには理由があります。
有力な説としてあげられるのが、
蝦夷(=東北)との戦いにおける大和朝廷の軍事拠点だったという説。
鹿島神宮のあるこの地は、
朝廷が支配する最も北側にあり、
その先にある蝦夷へ向かうための、
または、蝦夷による侵略から守るための重要な要所であったわけです。
そのため、
睨みを利かせるという意味で
鹿島神宮は北を向いているのではないのか。
これが本当ならば、
遥か遠いいにしえの話が現代と一本の線で繋がっている現れであり、
脈々と続く日本歴史の深さを感じます。
拝殿、幣殿、石の間、神殿からなる社殿も
国の重要文化財に指定されています。
拝殿の向かい側にあるのが仮殿です。↓
1618年(元和4年)、
社殿造営のため、徳川2代将軍秀忠公が奉納。
まずこの仮殿に神様を遷してから、
旧本殿を奥宮まで動かし、その跡地に新しい社殿を造りました。
当初は、楼門を入った真正面にありました。
その後、2回の移動で現在の場所となったそうです。
国の重要文化財です。
鹿島神宮にとっての神使「鹿」もちゃんといます
拝殿を通り過ぎると、奥参道となります。↓
山の中へ入っていくような気分です。
鹿島神宮の樹叢(じゅそう)は茨城県指定の天然記念物。
樹叢とは、植生によらない自生した樹木が密生している林地のこと。
ここには、スギ、シイ、タブ、モミなどの巨樹が生い茂り、
トータル600種以上もの植物が生息しています。
所々の大木が傾いていて、今にも倒れそう。
しかし、
これこそが長い歴史を持つ神社ならではの光景ではないでしょうか。
奥参道を歩いていると、左側にさざれ石があります。↓
さざれ石とは、小さい石が長い年月をかけて集まり、
1つの大きな岩の塊である巌(いわお)の状態になったものをいいます。
学術上の名前は石灰質角礫岩(せっかいしつかくれきがん)。
石灰岩が雨水で溶解し、そのとき生じた粘着力の強い乳状液が
次第に小石を凝固して、だんだんと巨石になっていくのです。
さざれ石の隣には鹿園があります。↓
寒い中、雨風雪に振られながらも、
鹿たちはときより雨宿りをしながら
柵の中ではありますが、屋外を歩いていました。
エサをもらえると思ったのでしょうか。
何頭かの鹿はわたくしのほうをじっと見ていました。
神使に見られている思うと、
なんだか不思議な気分です。
奥宮に到着しました。↓
改修中でしたので、ある一定のところから先へは進むことができませんでした。
残念。。
しかし、お賽銭箱は用意されていたので、
ちゃんとお参りしました。
奥宮は、1605年(慶長10年)に
徳川家康が関ヶ原の戦いに勝利したお礼として
現在の本殿の位置に本宮として奉納しました。
その14年後に、息子の秀忠が新たな社殿を建てるために
現在の位置に遷しました。
1901年(明治34年)に国宝に指定されています。
国の重要文化財です。
奥宮の御祭神は「武甕槌大神の荒魂(あらたま)」です。
武甕槌大神の荒ぶる魂の部分です。
この悪天候は大神が荒ぶっている証拠なのでしょうか。
やっぱり鹿島神宮から歓迎されていない?
いや、どうやら違うようです。
神々の荒ぶる魂とは、
勇猛で向上心にあふれ、前進する力、達成する力を司るといわれています。
つまり、
「やる気があれば応援するぞ」
と、韴霊剣(ふつのみたまのつるぎ)をチラつかせて、
話されているような気がするのです。
奥宮は、強い気持ちでお参りすると願いが叶いやすいといわれ、
参拝の行列ができるほど人気のスポットです。
このブログを続けますので応援してください!!(決意)
こちらは要石です。↓
別名「山の宮」や「御座石(みましいし)」。
地中深くまで埋まる要石が、
地震を起こす鯰(なまず)の頭を抑えていると
古くから伝えられています。
石の形が凹型。香取神宮の要石は凸型です。
両神宮の神がペアで大鯰を抑えているともいわれています。
水戸の徳川光圀がどこまで深く埋まっているか確かめようと
7日7晩にわたって掘らせました。
しかし、いつまで経っても底まで辿り着くことができず、
そればかりか、ゲガ人が続出したために掘ることを断念した、
という話が黄門仁徳録に記されています。
御手洗池(みたらしいけ)です。↓
雪が降るくらい寒かったので、水が湯気立っていました。
昔は参拝する前にここで禊をしたといいます。
この日のような天気でもこの池に入っていたのでしょうね。
1日に40万リットル以上の水が湧き出ているそうです。
東京ドーム15個分にも及ぶ鹿島神宮の広大な境内。
自然の中を歩くイメージで心身ともに癒されます。
同時に、日本の歴史を歩いているような気にもなります。
今度は天気が晴れのときに訪れたいですね。
そのときはまた違ったお守りをいただきたい!
住所:茨城県鹿嶋市宮中 2306-1
アクセス:JR鹿島線 鹿島神宮駅より徒歩10分
https://kashimajingu.jp/
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