【浅草寺の蓮弁守】卍の中にはずっしり重みのある観音様

東京
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卍とはめでたいことが起きる前触れ現象の仏教用語

第30回目は東京都台東区浅草にある
浅草寺の「蓮弁守」です。
お守り代2000円(授与時)。

浅草寺にあるたくさんのお守りの中でも
「蓮弁守」はひと味違います。
金剛色に光り輝き、触ることすらはばかれる。

よく見ると、
金糸に朱色の糸が混ぜっており、
それがまた
金剛色をさらに輝かせている、そんな風に感じられます。

表面には卍マークのみ。
卍は、めでたい出来事が起きる前触れ現象として用いられる仏教用語。
瑞相(ずいそう)、吉兆、瑞験などと同意義だそう。
ということは、開運、心願成就、合格祈願、安産など、
幅広くご利益がありそうなお守りです。

本来はとても素敵な意味を持つ卍ですが、
暴走族が使用したり、
「マジ卍」って若者言葉が流行ったり。
わたくしが子どもの頃には、
卍という映画があり、それがお色気な内容だったり。。
卍をやりたい放題に使用した結果、
ハッピーな意味がとこか彼方へと吹っ飛んでしまいました。
卍復興を願います!

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蓮弁は仏像の台座、あるいは光背の装飾上の意匠として多く用いられる

裏面です。

「金龍山浅草寺」と書かれています。
金龍山とは浅草寺の山号。
縁起によると、
観音さま示現の日、一夜にして辺りに千株ほどの松が生じ、
3日を過ぎると天から金の鱗をもつ龍が松林の中にくだったと記されています。
この瑞祥が、後につけられた山号「金龍山」の由来となったといいます。

この縁起を「蓮弁守」に当てはめてみると、
金糸と朱色の糸のルックスは、
もしかしたら金の龍の鱗をイメージしたのかもしれません。

「蓮弁守」の中には、観音様が入っておられます。
裏面の写真を見て分かるとおり、
紐が結ばれていないので、開いて中身を見ることが可能です。
(開けなくても、授与される際の説明書きに
お守りの中に観音様が入っておりますと書かれてはいますが)

取り出すのは、畏れ多くてできないのですが、
覗いては見ました。
白い和紙にくるまれた観音様と、
もう一枚何やら紙が入っております。
この紙が何かは分かりません。
和紙に包まれた観音様は、その姿をうっすら確認できます。
金色をしています。
触ると硬い。金属の硬さです。

金属ゆえに「蓮弁守」には重みがあり、
この重みが高尚感へと昇華し、
やや高めのお守り代ではありますが、
授与されることができて大変満足!

ちなみに蓮弁とは、
蓮(ハス)の花びら、蓮華の花弁のこと。
仏像の台座や光背の装飾上のデザイン(意匠)として多く用いられます。

浅草寺のお守り紹介はこちら

浅草寺とは以下のようなところです。

聖観音宗 あさくさかんのん 浅草寺 公式サイト - 浅草寺
浅草寺の縁起 時は飛鳥時代、推古天皇36年(628)3月18日の早朝、檜前浜成・竹成(ひのくまのはまなり・たけ
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漁の最中に観音様が網に引っかかったのが浅草寺の始まり

その場では気づかなかったのですが、
寺院幕に2つ、パッチリまつ毛のような山の模様があります。
(顔みたいで、LINEの絵文字にしてほしい)
これは、鎹山(かすがいやま)という紋。

鎹山紋とは、
比叡山延暦寺、東叡山寛永寺、日光山輪王寺の
三山のみ使用することを許された紋です。
皇室と縁が深い紋章の一つといわれています。
浅草寺ではもともと「卍」を使用していましたが、
ナチスのハーケンクロイツを連想させるということで、
外国人観光客に配慮して、使用を控えることにしました。
その代わり、江戸時代中期より寛永寺の直轄だったこともあり、
寛永寺から鎹紋を借りているという形で使用しているようです。

浅草寺の歴史は、
檜前浜成(ひのくまのはまたり)と檜前竹成(ひのくまのたけなり)の兄弟が
一体の像を発見するところから始まります。

628年(推古天皇36年)、3月18日の早朝。
宮戸川(今の隅田川)のほとりに住む
檜前浜成(ひのくまのはまたり)と檜前竹成(ひのくまのたけなり)の兄弟が
漁をしている最中、投網の中に一体の像を発見しました。
仏像のことをよく知らなかった兄弟は、
像を水中に投じ、場所を変えて何度か網を打ちました。
しかし、そのたびに尊像が網にかかるばかりで、魚は捕れず。
仕方なく、兄弟はこの尊像を持ち帰りました。

土地の長である土師中知(はじのなかとも/名前には諸説あり)に
この像を見てもらうと、
聖観世音菩薩であると判明します。
そして翌19日の朝、
里の童子たちが草でつくったお堂にこの観音様をお祀りしました。
土師中知は

土師中知
土師中知

御名を称えて一心に願い事をすれば、
必ず功徳をお授けくださる仏さまである

と、浜成・竹成兄弟や近隣の人びとに語り聞かせます。
やがて、中知は私宅を寺に改め、
観音さまの礼拝供養に生涯を捧げました。

そのときのお寺が今の浅草寺だといわれています。
なので、浅草寺は聖観世音菩薩が御本尊となっております。

大化元年(645)、
勝海上人という僧が当山に立ち寄り、
観音堂を修造しました。
ある夜、上人の夢に観音さまが現れ、

聖観音菩薩さま
聖観音菩薩さま

みだりに拝するなかれ

と告げられました。
以来、今日まで、
ご本尊を厨子(御宮殿)深く秘仏として奉安しています。

厨子に数重に及ぶ錠をかけ、
絶対秘仏として、
お寺の住職でさえも尊容拝見を慎んでいるそう。

御本尊の大きさは、
江戸時代以来の俗説の一つとして
「一寸八分」(約5センチ)といわれています。

聖観世音菩薩は、世間の生きとし生けるものの音声を観じ、
その苦しみを除かれ、また願いを聴いて安楽を与えてくれる仏様。
神変自在のお働きをすることから「観自在菩薩」とも称されます。
一般的には略して「観音さま」と呼ばれます。
観音様は、十一面、千手、如意輪など、いろいろな姿に変化するが、
聖観音はその基本とされています。

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源頼朝、徳川家康に愛された浅草寺

浅草寺は天下人たる武将からも敬愛されました。

1180年(治承4年)、
源頼朝は平家追討の戦陣を進めて
下総(現在の千葉県北部と茨城県の南部)から武蔵国へ入ったときに、
浅草寺で勝利を祈願しています。
1189年(文治5年)、
奥州平泉(現在の岩手県平泉町)の藤原氏征討の際にも、
頼朝は戦勝を願って、
浅草寺に田園36町(約35万7000m2)を寄進しました。

鎌倉幕府の『吾妻鏡』には、
1192年(建久3年)鎌倉で営まれた後白河法皇の四十九日忌「百僧供養」に、
浅草寺の僧侶3名が出仕したと記されています。

このことから、
浅草寺はすでに当時の関東における大寺の1つになっており、
鎌倉幕府とも関係を有していたことが分かります。

1352年(観応3年、正平7年)、
室町幕府初代将軍の足利尊氏は浅草寺へ参り、寺領を安堵しました。
1413年(応永20年)には、
第4代鎌倉公方であった足利持氏が経蔵を再建して寄進しています。

1590年(天正18年)、
江戸に入った徳川家康は、
信任する慈眼大師天海の進言もあり、
浅草寺を祈願所に定めました。
江戸城の鬼門に当たること、
天台宗の古刹として名高いこと、
源氏一族に信仰されてきた歴史があることが、
その背景にあるといわれています。

1600年(慶長5年)、
関ヶ原の戦いを目前にした時期、
浅草寺の忠豪上人は
徳川家康に祈祷を修するよういわれ、
古式どおり、浅草寺で観音密供を修します。
家康は9月15日早朝に始まった関ヶ原の戦いで、
勝利をおさめ、
これ以後、浅草寺の霊験は一段と天下に広く知れ渡りました。

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一時期、上野寛永寺の支配下に

このように、長年、庇護されてきた浅草寺ですが、
1685年(貞享2年)、
時の浅草寺別当忠運上人が、
5代将軍綱吉の不興をこうむったという理由で
退寺の悲運に遭います。

以来、浅草寺は、
徳川将軍の菩提寺である寛永寺(1625年創建)の
支配下に組み込まれます。
1740年(元文5年)からは
寛永寺の住職である法親王
(輪王寺宮/3代目住職以降、皇室から迎えられている)自身が
別当職を兼ね、
その代理人である別当代(副住職)が
実質上の総責任者として浅草寺を統括しました。
寛永寺による支配は幕末まで続きました。

この流れが前出の鎹山紋のレンタルに繋がっているわけです。

明治維新後、
浅草寺の寺領は太政官布告によって、
東京府の管轄となりました。
公園に指定された境内地は
1区から7区に分けて整備されます。

浅草といえば、「ロック」が有名ですが、
区画整備の「6区」から来ています。
正式には浅草公園六区というそう。
盛り場の流れを継いだ6区には、
明治の終わり頃から映画館が林立し、
東京屈指の歓楽街が形成されていきました。
今でも「浅草ロック座」「浅草ROX」が
「6区」を踏襲しています。

1890年(明治23年)には、
浅草寺の西側に
日本初のエレベーターを備えた
凌雲閣(通称「十二階」)という展望塔が造られ、
注目を集めました。↘

しかしながら、凌雲閣は関東大震災で倒壊し、
再建されることなく、そのまま幕を閉じました。
台東区浅草2-14-5にその記念碑があります。

松下幸之助の寄進により雷門が再建

浅草寺は、東京屈指の観光スポット。
皇居、都庁、渋谷スクランブル交差点と並び称される
ほどの知名度を誇ります。
浅草寺の中でも有名なのが雷門。シンボリックな建物です↓

正式名称は風雷神門。
雷門の造られた年代は不明ですが、
942年にはすでにあったようです。
今の位置に建てられたのは鎌倉時代以降のこと。
何度も焼失しており、
1865年(慶応元年)に火事になってから、
95年間は浅草寺に雷門がなかったといいます。
1960年(昭和35年)、
松下電器産業(現パナソニック)の松下幸之助氏の
寄進によって再建されました。

雷門をくぐり、左右の仲見世を楽しみながら進むと、
見えてくるのが宝蔵門(仁王門)。↓

造られたのは942年。
1945年(昭和20年)に東京大空襲によって焼失しますが、
1964年(昭和39年)に大谷重工業社長の大谷米太郎ご夫妻の寄進により、
鉄筋コンクリート造り、本瓦葺きで再建されました。
雷門よりも2、3回りほど大きいイメージです。

宝殿門をくずれば、さあ本堂です。↓

本堂は観音堂ともいいます。ここに聖観世音菩薩が奉安されています。
雷門、宝蔵門を見たあとに、
本堂を見ると地味にも感じられますが、実物はそんなことはありません。
とにかく大きくて、圧倒されます。

ちなみに、
浅草寺のおみくじは凶が多く、大吉が少ないことで有名です。
まだ試したことがなく、
大吉を引きたいという方はチャレンジしてみてください!

本堂から西南の方向に目をやると、五重塔が見えます。

江戸時代には、
上野寛永寺五重塔、芝増上寺五重塔、谷中天王寺五重塔とともに
「江戸四塔」と呼ばれていました。

今の五重塔は、
昭和48年(1973)に再建された、
鉄骨・鉄筋コンクリート造りのものです。
外から見ると、地上面から建っているように見えますが、
実際は基壇状の建物(塔院)の上に建っています。
塔高48.32m(地上53.32m)。

塔は、仏舎利を奉安したインドのストゥーパを起源としています。
浅草寺の五重塔の最上層には、
1966年(昭和41年)にスリランカのイスルムニヤ寺院から奉戴した
仏舎利が納められています。

浅草寺は、
その長い歴史において、何度も被災しては再建されてきました。
縁起や記録類によると、現在まで20回近いらしいです。
そのほとんどが失火や落雷、延焼によるもの。
1041年(長久2年)には地震によって一度倒壊しています。
関東大震災のときは倒壊しませんでした。
しかし、昭和20年に東京大空襲で焼失。
その後は、本堂の焼け跡に仮本堂(現在の淡島堂)が設けられ、
難を逃れたご本尊をお迎えしたとのこと。

そして、1958年(昭和33年)に
全国のご信徒さんからのご浄財により
今日の本堂が再建されました。

ここでは、とても書き切れないほどの歴史を持つ浅草寺。
東京ならずとも日本全国から愛されているといっても
過言ではないのではないでしょうか。

お出かけしたいシーズンに浅草は外せません。
桜がきれいな季節ならなおのこと。

浅草寺と浅草周辺で1日楽しんでください!
お守りチェックも忘れずに!!

住所:東京都台東区浅草2-3-1
アクセス:東京スカイツリーライン、東京メトロ銀座線、都営地下鉄浅草線、
     つくばエクスプレスの各浅草駅より徒歩5分
https://www.senso-ji.jp/

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