金と紫の色合いで高徳な雰囲気を醸す
第19回目は東京都千代田区平河町にある
平河天満宮の「御守」です。
初穂料800円(授与時)。

一見すると、ごく一般的なお守りです。
中央やや上に天満宮ならではの梅の社紋。
その下には「御守」の文字。
まわりには花菱がたくさん配されています。
梅の社紋は、それぞれの天満宮や天神社でディテールが違っています。
これは以前の荏柄天神社の記事でも紹介しました。

平河天満宮の梅鉢はお守りに描かれているとおりですが、
イラストにすると、下のようになるのではないでしょうか。

5つの丸の間隔がやや広めで、
全体的にほっそりした印象です。
「社紋&御守」が描かれた部分の地色は紫です。
でもよく見ると、地に敷かれているのではなく、
金色の「社紋&御守」を型取る感じで編み込まれています。
つまり、もともとの地色は金色であり、
紫色で縁取ることで、
社紋の形とお守りの文字が見えるようになっているわけです。
紫色の編み込みの隙間からは、地色である金色が覗いています。
金色は反射力が強いですから、
その影響によって、正面から見ると、
同じ金色の「社紋&御守」がなじんでしまいぼんやり。
ところが、お守りを右や左に傾けるとこうなります。↓

編目の隙間から覗く金色が見えなくなり、
その分、紫色が濃くなって
「社紋&御守」がくっきりします。
この視覚効果を利用したようなお守りのデザインが面白い!
(偶然の産物かもしれませんが)
ちなみに、
このお守りは平べったい薄いタイプになっています。
「御守」としかないが、ご利益は「開運」
裏面です。

裏面も同じで、
正面から見ると、紫の地色の下に隠れた金色が
キラキラと主張して、
「平河天満宮」の文字が滲むようになるのですが、
右や左へ傾けると、文字がくっきり見えます。
紫、緑、白の三色の花菱もメリハリが効いていて、きれいです。
実はこのお守り、
どこにも書いてありませんが、「開運」お守りです。
平河天満宮では、
開運、厄除、病気平癒、交通安全、旅行安全を
祈願するお守りはすべて同じデザイン。
紫バージョンと赤バージョンがありますが。
(わたくしのは紫バージョンです)。
授与されるとき、
こちら側が「開運のお守りをください」と言うと、
それ用の引き出しから出してくれるのです。
(見た目は同じでも中身が違う)
そして、お守りをわたくしに渡す前に、
火打石を打って切り火を起こし、
清めの儀式を行ってくれました。
カチンカチンと高い音を立てて火花が出る、
その様子を見るのって、
得(徳かな?)した気分です!
平河天満宮とは以下のようなところです。
幕府から学者まで幅広く愛された天神様

室町中期の禅僧万里集九(ばんりしゆうく)の詩文集、
「梅花無尽蔵」によると、
江戸平河城城主の太田道灌が、ある日、菅原道真の夢を見たといいます。
その翌朝に、菅原道真自筆の画像を贈られ、
その夢が霊夢であると感じたそうです。
そして、1478年(文明10年)に
城内の北へ天満宮を建立しました。
徳川家康が江戸平河城へ入城してまもなく、
築城のため本社を平川門外に奉遷(ほうせん=よそへ移すこと)します。
1607年(慶長12年)、
二代将軍秀忠によって、現在の場所に奉遷されて、
地名を本社にちなみ平河町と名付けました。
その後は、
徳川幕府を始め、
紀州徳川家、尾張徳川家、井伊家などの祈願所となり、
新年の賀礼には、
宮司は将軍に単独で拝謁できる格式の待遇を受けました。
また、学者からも愛されました。
江戸時代の国学者・塙保己一(はなわほきいち)は、
平河天満宮の熱心な信者でした。
住まいである和学講習所は、
平河天満宮の近く、現在の千代田区三番町24にあったといわれています。
江戸後期の蘭学者・高野長英も
主宰する大観堂学塾が平河天満宮のすぐ裏手にあり、
よく参拝に訪れたといいます。
塙保己一(1746年~1821年)は、江戸時代の国学者。7歳のときに失明し、手のひらに指で字を書いてもらい文字を覚えました。幕府、大名、寺社、公家などの協力を得て、古代から江戸時代初期までに成立した史書や文学作品など計1273種を収めた『群書類従』を編纂。
幕府に土地拝借を願い出て和学講談所を開設しました。
高野長英(1804年~1850年)は、江戸時代後期の医者・蘭学者。シーボルトに蘭学を学び、江戸で開業します。渡辺崋山らと尚歯会を作り「夢物語」を書き、幕府の鎖国策を批判。蛮社の獄で捕われ終生入牢となりますが、獄舎の火災で脱獄。沢三伯と名前を変え、蘭学を講述しながら『兵制全書』などの翻訳書を刊行します。しかし、幕府の捕吏に襲われて自殺しました。
平河天満宮は、幾度も延焼・類焼を被っており、
1923年(大正12年)の関東大震災や1945年(昭和20年)の戦災では、
ほとんどの施設が焼失してしまいました。
戦後、仮社殿にて祭祀を執り行っていましたが、
1969年(昭和44年)に本殿が再建されました。

千代田区最古の銅鳥居に強運を感じる
平河天満宮は、蔵門駅から国立劇場に向かって歩く途中にあります。
皇居がすぐそばです。
googleマップで調べたところ、
皇居から一番近い神社ではないかと推測します。
一番の見どころは、千代田区最古の銅鳥居。↓

1844年にここの近くの麹町周辺の人々によって建設・奉納されました。
高さは五メートル。柱木自体は石製で、銅版が巻き付けられています。
制作したのは、神田鍛冶町の鋳物師である西村和泉藤原政時。
ところどころ銅版が剥げて、石が露出しています。
これは戦時中、空襲の際の機銃掃射によるもの。
この銅鳥居は、いわば、戦争に耐えた鳥居。
倒れない粘り腰があるだけでなく、運も持ち合わせた鳥居なのです。
たとえ古くとも、歴史を語る大切なものには違いありません。
後世に残してほしい一つです。
西村和泉とは、元禄から明治期まで12代にわたる鋳物師の一家系です。
彼らは江戸とその周辺に梵鐘、灯籠、水鉢など、数多くの作品を残しました。
12人の当主の多くが「西村和泉藤原政時」を名乗っています。
平河天満宮銅鳥居の作者は、8代目であると考えられています。
「撫で牛」を撫でて学芸上達を祈願
天満宮、天神社といえば牛です。↓


なぜ牛なのかというと、諸説があるようです。
1.承和12年乙牛6月25日、すなわち丑年に菅原道真が生誕したというので、
牛が天神に付会(=こじつけ)された。
2.菅原道真が死去し、墓を築いて葬ろうと喪の車を引き出したが、
途中で牛車が動かなくなり、その場所に埋葬。そこがのちの大宰府天満宮となった。
3.「天満大自在天神」という神号から発生するもの。
天満大自在天神というのは、菅原道真の霊であり、
仏教では大自在天神は白牛に乗るとされているので、
天満大自在天神である菅原道真は当然に牛に乗るということから、
天神に牛が紐づけされた。
4.道真公のもう一つの神号「日本太政威徳天」も、
密教の大威徳明王に由来されており、
この明王のみが牛に騎乗する姿で表現される。
5.菅原道真が牛車を引く牛を可愛がったという伝承によるもの。
6.道真公が大宰府に落ちてゆく途中で、
命を狙われたとき、白牛に助けられた。
など、ありますが、はっきりとは分からないようです。
平河天満宮では、
石牛を撫でると学芸が上達するという信仰があり、
参拝者の多くが、拝殿でのお参り後に、
頭部や背部を撫でてご利益をいただいています。
もちろん、
体の悪いところを撫でて、
良くなることを祈願するものでもあります。
また、平河天満宮は、
学問の神様を祀っているだけに
受験生や資格を取りたい方が数多く参拝に訪れます。
中でも、医学・薬学系の道を志す方々が多いのが特徴です。
勉強で忙しいところだとは思いますが、
息抜きができるのであれば、ぜひ足を運んでいただければと思います。
味方となるお守りも授与されてください!
住所:東京都千代田区平河町1-7-5
アクセス:東京メトロ半蔵門線半蔵門駅一番出口より徒歩1分
東京メトロ有楽町線麹町駅一番出口より徒歩3分
JR四ツ谷駅麹町口より徒歩10分
公式HPはありません。
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